昭和22年9月
繊維資材配給機関として指定
(戦災工業者の残存設備に原料の補償割り当てをする為の機関)
組合員数160名
終戦
昭和23年8月14日
南区清水町(現 中央区清水町)より東区谷町(現 中央区谷町)へ事務所移転
原料統制時代
昭和24年1月
統制令撤廃により原糸配給制度廃止
統制令撤廃
昭和24年9月15日
160名の組合員の出資により、大阪靴下会館を北区空心町(現 北区松ヶ枝町)に竣工移転。
原糸、副資材の共同購入、せり市による製品の販売、木管共同回収等を行う。
自由経済幕開け
昭和25年
原糸、副資材の共同購入、せり市による製品の販売、木管共同回収を等を行う。
組合員数の減少の反面、組合員の企業意欲は活発化し、編柄機やゴム糸挿入装置が開発、導入された。
昭和28年
転業、及び廃業する組合員の発生に伴い、組合員数は88名に減少
短ソックスに弾性糸ウーリナイロンが使われる。
ナイロンブームが起こり、ナイロン製靴下が一気に普及する。
昭和32年
後発ナイロン製造企業続出。
ナイロン靴下生産の過剰による業界不況。
昭和33年
安定法が改定法に改められ調整組合を「大阪靴下工業組合」に移行。
「大阪靴下工業協同組合」と並行して、組合事業を行う。
昭和34年
全国22組合による「日本靴下工業組合連合会」結成
昭和34年5月25日
昭和34年5月25日までに現存する編立機を登録の届出制と、登録以外の編立機以外の新増設の禁止が行われ、組合は設備制限と生産調整事業に協力。
団体法による事業活動の規制に関する命令(第57条命令)、及び設備新増設の制限に関する命令(第58条命令)に基づく発動を通産省に申請し、発動が認可される。
昭和38年3月
旧大阪靴下会館の売却資金をもって、東成区中道3丁目(現住所)に大阪靴下会館を建設。
フルファッション・トリコット・ストッキングが完全にシームレスストッキングに移行。
昭和41年4月
大阪府が行う労務改善事業の指定を受け、5ヵ年労務管理の啓蒙を行う。
1.労務管理講習会
2.労務管理の資料提供
3.従業員福祉対策で、就業規則の作成から、作業環境の整備
リンキング工の要請と奨励を目的として、3ヵ年にわたるリンキング競技大会を開催。
若年労働者不足による経営圧迫、労務管理体制の確立、労働条件の改善が急務となる
リンキング工が年々減少する
昭和41年10月
靴下工業協同組合20周年記念行事として、優良従業員の表彰を行う。
昭和42年
本年より、靴下製造作業技能検定試験を実施。
昭和58年までに1級技能士70名、2級技能士282名の技能士を送り出す。
昭和44年
パンティー部分までのストッキングが開発され、昭和45年にはパンティストッキングの爆発的流行が起こる。
昭和46年
イスラエルからのパンティストッキングの輸入が激増。
ストッキングメーカーに打撃を与える。
昭和47年10月
業界不況打開のため、自主的に生産設備20パーセントの操業短縮。
しかし、効果なく、更に10パーセントの操業短縮と在庫の一部の搬出禁止の凍結実施